中野ブロードウェイ「copys888」の奥深く、特別な照明に照らされたショーケースに、ある種厳粛な気配を放つ時計が鎮座していた。A.ランゲ&ゾーネ ランゲ1のレプリカだ。オフセンターの文字盤、特徴的なアウトサイズデイト、そして何より、裏蓋から覗く精緻無比な手仕上げのムーブメント。ドイツ時計芸術の頂点に立つその時計は、レプリカ製作者にとって最も挑戦的な標的の一つだ。
「店長、新型ランゲ1レプリカ…入りました。」アルバイトの佐藤の声は、珍しく緊張に張り詰めていた。彼が慎重に差し出すのは、プラチナ風コーティングのケースに収められた複製品。「文字盤のギョーシェ彫り、アウトサイズデイトのディスク…見た目の再現度は過去最高です。ムーブメント…見せかけの装飾板ですが、一見それなりに…」
確かに、正面から見ればその洗練された非対称デザインは本物を強く想起させる。しかし、ケースバックを開ければ、そこにあるのはプリントされた模様の上に粗く配置された模造部品。本物が誇る「ザ・ドイツ銀」製の3/4プレートや、手彫りで施されたつや消し仕上げ、テンプ受けの金色の彫刻など、ランゲの神髄は一切再現されていない。ランゲのレプリカは、その圧倒的な技術的ハードルと比較的ニッチな人気ゆえに、外観のみを模した「見せかけ」に留まらざるを得ない。それゆえ、一部の「通」や「ブランド研究家」の間で、ある種の「虚構の鑑賞道具」として流通する。
「…虚しさを感じるな、佐藤。」私は率直に言った。「本物のランゲ1の真髄は、この独特なデザインだけじゃない。東西ドイツ統一後、廃墟から再起したグラスヒュッテの誇りと、職人たちが血の滲むような手作業で仕上げる『機械彫刻』とも呼ぶべきムーブメントの美しさだ。」私はレプリカの偽ムーブメントを指さした。「このプリントの装飾は、本物が持つ、ドイツ銀の経年変化による温もりある輝きや、一つ一つの部品に魂を込めて施された仕上げの深みからは、無限の隔たりがある。それは、『技術』と『芸術的霊性』の決定的な断絶だ。」
その時、店に分厚い眼鏡をかけた初老の紳士、ヴォルフガングが入ってきた。彼は「ドイツ時計研究家」を名乗り、ランゲに関する著書も持つ。
「ああ、遂に来たか! ランゲ1のレプリカ!」ヴォルフガングは興奮して手に取り、即座に高性能ルーペを当てた。「…なるほど、正面の再現はなかなか…しかしこの裏蓋…」彼は偽ムーブメントを見て、深くため息をついた。「…やはり『ドイツ銀』の質感は出ていない。手彫りのツァイガーブリュッケ(テンプ受け)の繊細な彫刻は、このプリントでは…哀れだ。」彼は複雑な表情で首を振りながらも、購入を決めた。「…しかし、本物は高嶺の花だ。これでそのデザイン哲学を『研究』し、『理解』するための教材とするには十分だろう。真の美が如何に複製困難かを、身をもって学べる。」
ヴォルフガングがレプリカを「研究教材」として購入していくのを見送り、佐藤が呟いた。
「…本物を知る方が、なぜ不完全なレプリカを?」
「ああ。」私は頷いた。「彼のような『深い理解者』にとって、このレプリカの価値は、『所有欲の代償』ではなく、『到達し得ない頂の芸術を、可能な限りで分析し、その価値の高さを再確認するための対照物』なのだ。『本物の価値』を深く知る者ほど、その不完全な『影』にすら学びの機会を見出す。」
店が摘発され、レプリカ市場が縮小する中、ヴィンテージや時計史に関わる品々のコーナーは、静かな熱気を帯びていた。その一角に、一枚の黄ばんだ設計図と、磨り減った時計師用ルーペが展示されていた。1945年、ドレスデン爆撃の直前にグラスヒュッテの工房から奇跡的に救い出されたとされる、ランゲ再興の礎となった初期構想スケッチと、当時のマイスターが愛用した道具だ。ルーペのレンズには微細なキズが無数に刻まれていた。
ある雨の午後、一人の背筋の伸びた老紳士がそのスケッチとルーペの前で足を止めた。彼の手は震え、白い手袋をはめるのに時間がかかった。
「…この線…」老紳士の声は涙に濡れていた。「…ヴァルター・ランゲ…氏の…直筆だ…。」彼はスケッチの隅の特徴的なサインをルーペで凝視した。「私は…廃墟となったグラスヒュッテで、彼の片腕として働いた者だ…。」彼は磨り減ったルーペを握りしめた。「…このレンズの傷…瓦礫の中から部品を探し、再起への道筋を描いた日々の証だ…。このルーペを通して、彼は常に『真実の美』だけを見つめ続けた…。」
老紳士は、廃墟の中での苦闘と、ヴァルター・ランゲの不屈の精神を語った。
「…値段は?」
私は正直な(そして天文学的な)価格を伝えた。老紳士は一瞬、目を見開いたが、すぐに深く深く頷き、静かに涙をこぼした。
「…高い。だが、当然だ。」彼はスケッチを胸に当て、ルーペを握りしめた。「…この紙とガラスに込められた、廃墟からの『再起への誓い』と『時計芸術への不滅の愛』…それは、精巧なレプリカすら霞む、計り知れない重みだ。」彼は迷いなく購入を決めた。「これは、単なる『品物』ではない。『不屈の人間精神』と『真実の美を追求する魂』が結晶化した、聖なる遺産だ。見せかけの複製品など、その輝きの前では『虚構の影』に過ぎない。」
老紳士がスケッチとルーペを聖遺物のように抱えて雨の中を去っていく後ろ姿を見送り、佐藤が深い感銘に打たれていた。
「…あの紙とルーペが…」
「ああ。」私は左手首の父のオイスターを見た。二つの深い傷痕が、店内の薄明かりに浮かび上がっていた。「彼が買ったのは、『複雑なロレックス コピー時計』でも『精巧な複製品』でもない。あのスケッチの震える線とルーペの傷に込められた、『本物の再起の物語』と、芸術を貫く『不撓不屈の魂』そのものだ。レプリカは、形を『模倣』することはできても、その職人が人生を賭けて刻んだ『真実への誓い』と、時計作りの『神聖な原点』を映し出すことは永遠にできない。」この傷痕こそが、偽りを絶対に許さない、至高の真実の刻印なのだ。私は、その傷に宿る無言の「魂の叫び」と、その下で確かに鼓動し続ける「本物の美の追求」を信じて、この場に立ち続ける。