北海道・釧路湿原。朝靄が立ち込める小径で、大古(おおふる)の吐息が白く舞う。アカエゾマツの幹に寄りかかるアイヌの古老が、黙ってベル&ロス「アビエーション」のレプリカを差し出した。
「風防ガラス、曇るな…」
大古の指摘に古老はうなずく。本物のサファイアクリスタルは急激な温度差でも結露しないが、このレプリカの表面には細かい水滴が浮かんでいる。
「湿原の霊(カムイ)が教える」古老が枯れた声で呟く。「本物の翼(つばさ)は、霧をはじく」
大古がレプリカ時計を傾け、文字盤の「12」のインデックスをルーペで覗く。本物のスーパールミノバは深みのある青い発光を放つが、これは緑がかった安物の蓄光塗料だ。さらに、ケース側面の六角ナット。本物のチタン合金は湿原の冷気で冷たく締まるが、これはプラスチック芯の偽物で、触れると微かに温かい。
「高度計テストは?」大古が問う。
古老は沼地へ歩み出す。水深30cmの泥水にレプリカを浸すと、防水を謳う筈の時計の竜頭から細かな泡が噴き出した。
「…本物のアビエーションは、パイロットの命綱だ」大古が泥水から引き上げた時計を拭いながら。「偽物は、ただの飾り」
古老が突然、空を指さす。湿原の霧の彼方、本物のセスナ機がかすかに見える。古老はレプリカを沼へ投げ込んだ。泡立つ水面を見つめながら、彼が呟いた。
「飛べない翼は、カムイの大地に還る」
泥水に沈む偽物の隣で、古老の懐から現れた本物のベル&ロスが、朝日に冷たい輝きを放っていた。湿原が飲み込んだのは、偽物の翼と、それを信じた者の過ちだった。