東京証券取引所、午前九時ちょうど。僕、円・大古は、巨大な相場表示板が赤と緑の数字の奔流を吐き出す喧騒の只中に立ち、ある男の手首に釘付けになっていた。スーツの袖口から覗くのは、ロレックス・デイトナ、ありふれたステンレスモデルだ。しかし、その男──伝説の個人投資家、通称「時翁(じおう)」と呼ばれる老人が、相場が大暴落するちょうど五分前に、微かに笑みを浮かべて売り注文を出した時、僕は確信した。あの時計は、ただのレプリカではない。それは未来を刻む、危険な贋作(がんさく)だった。
「…来たか、時の探偵(タイム・ディテクティブ)」
取引終了後、時翁は僕を近くの喫茶店に招き入れた。埃っぽい店内で、彼はそっと手首のデイトナを外し、テーブルに置いた。
「そなたの目なら、見抜けるだろう?」その口調は挑戦的だった。
僕はルーペを取り出す。外装は確かに精巧なレプリカ。しかし、ケースバックを外すと──現れたムーブメントは、ロレックス純正のキャリバー4130とも、一般的なコピー機芯とも全く異なる。水晶発振子の代わりに、微細な量子ドットが封じられた未知の基盤。歯車は、見たこともない青みがかった合金でできている。
「これは…」
「時を『借りる』装置さ」時翁の目が異様に輝く。「この歯車は、未来の相場情報という『負債(デット)』を、わずか数分だけ現在に先取りして刻む…代償として、少しずつ『時間の純度』を蝕んでいくがな」
彼は、レプリカ時計の側面にある、通常なら存在しない極小のポートを指さした。「ここに、『債務(デット)』の更新データを流し込むんだ」
その衝撃的な真実は、闇市場に歪な波紋を広げた。数日後、新宿ゴールデン街の奥まったバー「クロノス」。顔見知りのブローカー、ジローが、顔を引きつらせて僕に打ち明ける。
「大古…ヤバいもんが流れてきた。『未来当たり券』付きのレプリカだって噂だ」
彼が密かに見せたのは、オーデマ・ピゲ・ロイヤルオークのコピー。外見は上物だが、裏蓋を開けると──そこには時翁の時計と酷似した、青みがかった合金の歯車が収まっていた。
「どこの馬鹿が…」ジローが歯噛みする。「金貸しのドンが、競合相手の動きを先読みするために、無理やり量産させたらしい。だが、こいつら…『時間の債務』なんて概念、理解してねえんだ」
その言葉通り、事件はすぐに起きた。翌週、ある中小企業の社長が、その「未来当たり券」時計に依存した巨額の投機に失敗、破産。更に追い打ちをかけるように、彼は急速な老化現象に見舞われたという報告が闇医者の間で流れた。「時間の純度」を食い潰した代償だった。
真の恐怖は、この技術の「源流」を探る旅路で明らかになった。僕は時翁の断片的な情報を頼り、埼玉の廃工場地帯の奥深くへ分け入った。目的地は、表向きは廃棄物処理業を装う「時空精製研究所」。重い鉄扉の向こうには、無数の分解された高級時計と、複雑怪奇な量子装置が絡み合う異空間が広がっていた。主(あるじ)は、元・物理学者のドクター・クロノス。痩せこけた彼は、狂気の光を宿した目で、宙に浮かぶ青い歯車のホログラムを弄んでいた。
「ようこそ、『時債(タイムデット)市場』の創設者へ!」彼の笑い声が金属の壁に反響する。「我々は単なるレプリカ屋ではない! 時間そのものを担保にした、究極の金融商品を生み出したのだ!」
彼は、作業台に置かれた無数のレプリカ時計を指さした。「これらは全て、未来の情報という『果実』をほんの少しだけ先取りする『導管』に過ぎない! 使用者は、その果実の味に溺れ、知らぬ間に膨大な『時間の債務』を負う…そしてその債務こそが、我々の真の資本なのだ!」
その「債務」の実体は、想像を絶するものだった。ドクター・クロノスの研究所の最深部。巨大な培養槽がずらりと並び、中には無数の人間が、時計のような装置を頭部に接続された状態で浮かんでいた。彼らの肉体は異常なまでに痩せ細り、皮膚は蝋(ろう)のように半透明だった。
「見よ! これが『時間債務者』だ!」クロノスが狂喜する。「彼らが『導管』となって吸い上げた『純粋な時間』…それを濃縮し、新たな『未来視レプリカ』の動力源とする! まさに持続可能な『時間産業』の完成形だ!」培養槽の傍らには、最新鋭のレプリカ製造ラインが唸りを上げ、青い合金の歯車を次々と生み出していた。レプリカ時計は、最早、贋作ですらない。人間の時間そのものを喰らい、未来を商品化する、悪魔的な金融商品の具現化だった。
夜、自室。机の上には、ジローが必死に回収した「未来当たり券」ロイヤルオークのレプリカが置かれている。その青い歯車は、微かに不気味な燐光を放っていた。パソコンの画面には、闇市場の深層ダークウェブサイトが開かれている。「時債取引所オープン! 未来情報先物取引受付中」「高利回り保証! 時間債務ファンド募集」。ドクター・クロノスの狂気のビジネスモデルが、巨大な闇金融システムとして、密かに、しかし確実に拡大していた。その投稿の下には、破産した社長や、忽然と消えた投資家の家族による悲痛な訴えが無数に並ぶ。「夫が急速に老いた」「父の行方が…」「返済不能な『時間の利息』とは?」。
僕は、燐光を放つレプリカを手に取った。冷たく、重い。その重さは、鋼の質量なのか、それとも詰め込まれた無数の「借りた時間」の重みなのか。窓の外、東京のネオンは無数の未来への欲望で歪んで見える。レプリカ時計とは何か? それは最早、ブランドの模倣品ですらない。量子技術の闇を利用し、未来の情報という禁断の果実をちらつかせ、人間の寿命そのものを「時間債務」として喰らい続ける、悪魔的な金融商品=時空贋作(じくうがんさく)なのだ。時翁の危うい知恵。ドクター・クロノスの狂気のシステム。そして無数の消えた「債務者」たち…。
明日もまた、無数の「時空贋作」が新たな宿主に寄生し、未来への欲望を煽り、膨大な「時間の債務」を負わせていく。僕は、冷たい青い歯車を握りしめた。その微かな振動が、無数の債務者の悲鳴に聞こえた。この悪夢から目覚める方法はあるのか? あるとすれば、それはおそらく…未来という蜃気楼に惑わされず、己の手で刻む「今」という時だけを、確かな重みとして生き抜く覚悟なのだろう。僕は、腕の父の形見である、古いが確かな機械式時計のリューズを巻き上げた。その規則正しい音が、歪んだ時空の中で、唯一の確かな「現在」を刻んでいるように感じられた。