谷中霊園、夕暮れ時。僕、円・大古は、無数の墓石が夕陽に長い影を落とす静寂の中、一基の古びた墓の前に立っていた。墓誌には「時計師 小野寺時蔵(おのでらときぞう)」とある。僕が手にしているのは、彼が生前、密かに制作していたというロレックス・デイトナのレプリカ。ジロー親父が「ただものじゃねえ」と震えながら託した代物だ。外見は精巧だが、ベゼルを回すと、奇妙なことに、僕の脳裏に全く知らない情景──戦時下の工場で時計部品を磨く少年の記憶が鮮明に浮かんだ。これは、単なるレプリカではなかった。それは、記憶を刻む装置だった。
「…見つけたか、若造」
振り返ると、小野寺時蔵の元弟子、隻眼(せきがん)の老職人・風間(かざま)が、松の木陰に佇んでいた。彼の右眼は、深い傷跡で覆われている。
「師匠はな、『本当の贋作(がんさく)は、物じゃねえ。人間の記憶そのものだ』って言ってた」風間の声には、深い悔恨がにじむ。「あの時計…師匠が『記憶時計』と呼んだものだ。持ち主の人生の断片を、鋼(はがね)と歯車に刻み込む、呪いのクロノグラフだ」
その呪いの全容は、風間のアトリエで明らかになった。下町の長屋の奥、埃と油の匂いが染み付いた作業場。壁には、無数の分解されたレプリカ時計と、古い写真が無造作に貼られていた。その中に、若き日の小野寺時蔵と、風間、そしてもう一人の美しい女性が笑う写真があった。
「…澄子(すみこ)さんだ」風間が震える指で写真を撫でる。「俺たち三人で、この町で小さな工房を営んでいた。戦争が全てを奪うまではな」
彼は、作業台の奥から、一つの古いノートを取り出した。小野寺の研究ノートだった。そこには、衝撃的な真実が記されていた。小野寺は、戦争で失った愛する者たちの記憶を留めようと、レプリカ時計に記憶を封じ込める技術「記憶刻印」を開発した。しかし、それは不完全な技術だった。刻まれた記憶は持ち主を侵食し、やがて本人の記憶までも歪め、上書きしていく──文字通り、人生を「贋作」へと変える代物だった。
「師匠は…澄子さんの記憶を、最初のデイトナレプリカに刻んだ」風間の隻眼から涙が零れた。「だが、その時計を身に着けた資産家が、澄子さんの記憶に侵され、彼女になりきって狂った…その混乱で、俺の目を…!」彼は己の傷跡を押さえた。記憶時計は、刻まれた記憶だけでなく、悲劇そのものも再生産していた。
風間は、小野寺の技術を封印した。しかし、その「記憶刻印」の技術は、闇市場に流出していた。数日後、六本木の超高級マンション。新進気鋭の現代アーティスト、ミズノ・レイナの個展オープニングパーティー。彼女の手首には、小野寺工房の特徴を色濃く残す、パテック・フィリップ・ナウティラスのレプリカが光っていた。その作品群は、戦前の下町情緒をモチーフにしたものだったが、細部に異様なリアリティがあった。風間が、特殊な周波数を発する装置を時計にかざすと──レイナの表情が一瞬、少女のような無邪気な笑みに歪んだ。澄子さんがそう笑ったように。
「…刻印が、深すぎる」風間が呻く。「持ち主の人格を、刻まれた記憶が喰い荒らし始めている…!」
更なる悲劇は、記憶時計の「量産」を知らせてきた。渋谷の雑居ビルにある、とある「高級レプリカ専門」の闇工房を急襲した。しかし、そこにはもぬけの殻。残されていたのは、無数の未完成のレプリカと、盗難にあったと思われる古いアルバムの山だった。アルバムには、無名の人々の笑顔の写真が貼られ、その横に「対象者:〇〇様。刻印希望記憶:家族団欒(昭和40年夏)」「対象者:××様。刻印希望記憶:初恋(高校三年時)」などとメモが書き込まれていた。金さえ払えば、誰でも「偽りの輝かしい記憶」を手に入れられる時代が、密かに訪れようとしていた。
そして、事件は、記憶時計が刻む「負の記憶」の再生にまで及んだ。風間のアトリエに、一人の老婦人が助けを求めて訪れた。彼女の息子が、ネットで購入したロレックス・エクスプローラーのレプリカを身に着けてから、凶暴化し、戦時中の将校のような言葉遣いで「突撃しろ!」と叫び続けるという。
「…あの時計の中には」風間が、息子から没収した時計を分解しながら、蒼白になった。「…戦場で部下を全滅させた小隊長の、絶望と狂気が刻まれている…!」
記憶時計は、刻まれた記憶の「感情」までも、容赦なく継承者へと流し込んだ。それは最早、個人の悲劇を超え、社会に潜伏する「記憶のウィルス」だった。
夜、谷中霊園。小野寺時蔵の墓前で、風間は最後の決意を語った。
「師匠の過ちは、俺が清算する…全ての『記憶時計』を、この手で消し去らねば」
彼は、小野寺が遺した「記憶消去」用の特殊な共鳴装置を取り出した。しかし、その装置を作動させるには、刻印の「核」となっている最初の時計──澄子さんの記憶が刻まれたデイトナを破壊する必要があった。それは、師匠が遺した澄子さんへの想いそのものを、風間の手で葬ることを意味した。
「…やるしかねえ」風間の隻眼に、固い決意の光が灯った。「本物の記憶は、心の中にしか残せねえってことを、この業界の連中に思い知らせてやる」
その決戦は、記憶時計の闇取引が行われるという廃工場で行われた。風間の装置が発する特殊な周波数が、集められた記憶時計の歯車を共鳴させ、歪な音を立て始める。闇ブローカーたちは耳を押さえ、苦悶する。風間は、澄子さんの記憶が刻まれたデイトナを手に握りしめ、装置に近づいた。その時、彼の背後から、一人の男がナイフを振りかざして襲いかかる──記憶時計の流通で巨利を得ていた闇の元締めだった。
「風間さん!」僕が叫ぶ。
風間は、咄嗟に身をかわし、男のナイフが──代わりに装置の核部分を直撃した!
ガシャーン! 衝撃と共に、青白い閃光が走る。全ての記憶時計が一斉に停止し、そのケースから微かな煙のようなものが立ち上り、消えていった。刻まれた偽りの記憶が、この世から消え去る瞬間だった。
「…澄子…さん…」風間が崩れ落ち、無傷のデイトナを抱きしめた。装置は破壊され、記憶消去技術は再現不可能となった。しかし、澄子さんの記憶だけは、彼の手の中で、形として残された。皮肉な救いだった。
数日後、小野寺時蔵の墓前に、一つのロレックス・デイトナのレプリカが供えられた。それは、最早、誰の記憶も刻んでいない、ただの精巧な模造品だった。風間は隻眼でそれを見つめ、静かに言った。
「…師匠。贋作に刻むべきは、人生じゃなかった。未来への、ほんの少しの希望…それだけだってことを、ようやく分かったぜ」
僕は、その言葉を胸に、墓園を後にした。偽りの記憶に彩られた街を抜け、確かな、たとえ辛くとも「自分の」記憶だけで歩んでいく人々の群れの中へ。レプリカ時計とは何か? それは、時に、失われた記憶への哀しいレクイエムとなり、時に、偽りの人生を刻む呪いの装置となる。しかし、真実の重みは、鋼(はがね)の輝きではなく、己の胸の中で脈打つ、かけがえのない「今」という刻(とき)の中にしか存在しないのだと、風間の隻眼が教えてくれた。明日も、人はそれぞれの時を刻み続ける。たとえそれが、レプリカの歯車のように、時に歪んでいても。