新宿西口、廃ビルの谷間を縫う細い路地。僕、円・大古は、コンクリートの冷たさが染みる壁にもたれ、深夜の帳(とばり)が降りた街を見下ろしていた。眼下、人工の星々が無機質に瞬くネオンサインの合間を、時折、車のヘッドライトが鋭く切り裂く。その光の束に一瞬浮かび上がるのは──無数の「亡霊」だった。ロレックスのオイスターケース、オメガのスピードマスターベゼル、パテックの複雑な文字盤…。レプリカ時計は、本物の影でありながら、この街の闇に確かな質量をもって蠢く亡霊たちだ。今夜、僕はその亡霊たちが生み出される工房の深淵へ、足を踏み入れようとしている。
目的地は、中央線沿いの古びた工場地帯の奥。立川の、戦時中の軍需工場跡と囁かれる広大な廃墟群だ。案内人と名乗る男、その名はケン。無愛想な口調で「触れるな、話すな、ただ見ろ」と繰り返す。錆びた鉄柵の隙間をくぐり、崩れかけた煉瓦造りの建物の地下へ降りていく。重い鉄扉を開けた瞬間、有機溶剤と金属切削油の鋭い匂いが鼻を刺した。
その空間は、異様な光景だった。天井からぶら下がった裸電球が照らし出すのは、無数の作業台。その上で、まるで外科手術のごとく、ロレックス コピー時計が分解され、磨かれ、組み立てられていた。老いた職人の手が、ルーペを嵌めた片目で、ロレックス・デイトナのクロノグラフ・モジュールを微調整する。隣では、若者が最新の3Dスキャナーで分解されたオーデマ・ピゲのムーブメントを丹念に読み取る。古い旋盤の唸りと、最新のCNC工作機の微かな駆動音が奇妙なハーモニーを奏でる。ここは、「亡霊工房」──レプリカ時計の心臓部が生み出される現場だった。
「…見たか、大古」
ケンが低く呟く。彼の目は、部屋の奥、仕切られたスペースを指す。そこには、一人の老人が、分厚い防塵ガラス越しに、ほとんど息をするのを忘れるほど集中して作業していた。彼の手元には、パテック・フィリップのグランドコンピケーションのレプリカ、いや、それを通り越した何かが鎮座している。
「あのジジイは…『神様』だ。本物の設計図すら見たことがないのに、分解写真と動画だけを頼りに、ここまで再現しちまう」
老人の指先が、複雑に絡み合った歯車の列の一つを、極細のピンセットで慎重に配置する。その動きは、祈りにも似ていた。彼は、亡霊を創造する神(ゴッド)だった。しかし、その創造は、完璧への渇望と、法的な闇という二重の鎖に縛られている。
「だがな…」
ケンの声が、冷たい現実を投げつける。
「神様の『作品』だって、完璧じゃない。外見はそっくりでも、動かせばわかる。本物のムーブメントが奏でる『時の唸り』は、潤滑油の質、歯車の噛み合わせの微調整…工場じゃ再現できねえ『職人の息吹』が宿ってるんだ」
彼は、作業台の隅に置かれた、見事なロレックス・デイトジャストのレプリカを手に取る。外見は完璧。しかし、彼がそっと耳元に寄せ、自動巻きのローターを回すと──。
「…聞こえるか? 本物は、絹を擦るような滑らかな音だ。これは…砂利を踏むような、かすかな軋みが混じってる」
完璧な亡霊など存在しない。それが、この闇市場の残酷で、しかし避けられない真実だった。
数日後、銀座の高級時計店のショーウィンドウ前。輝く本物たちの向こう側に、僕は立つ。店内で、スーツ姿の紳士が、店員の丁寧な説明を受けながら、純白のロイヤルオークを手首に試している。その紳士の反対側の歩道、少し離れた場所で、一人の男が通行人にささやく。
「…お兄さん、本物と見分けがつかない逸品、見せますよ?」
男がコートの内ポケットからそっと取り出したのは、まさにその紳士が試しているロイヤルオークと瓜二つのレプリカだった。タグホイヤーの箱に入れられ、本物の保証書まで精巧に偽造されている。通りかかった若い男が、値段を聞き、目を輝かせて近づいていく。ショーウィンドウの向こうの「光」と、歩道の上の「影」。この街では、亡霊が堂々と光の下を歩き、本物の影となる。
夜、自室。机の上には、亡霊工房で密かに入手した、神様の手によるパテックのグランドコンピケーションの「試作品」が置かれている。その複雑精緻な造形は、まさに芸術品だ。しかし、僕は懐中時計用の小型スピーカーを、そのケースバックにそっと当てる。拡大された機械音が、ヘッドホンから流れ込む──確かに、そこには、ケンの言った「軋み」が混じっていた。微かだが、確かな不協和音。
パソコンを開く。闇市場の深層サイトには、今日も新しい「亡霊」たちのカタログが掲載されている。「最新工房直出! 神レベルのスーパーコピー!」「遂に本物と同ムーブメントを搭載!」 虚構のキャッチコピーが踊る。その下には、届いた商品への絶望の声。「動かない」「分解したら中身がぜんぜん違った」「警察に没収された」。
「…神への冒涜か」
僕は呟いた。神様の祈りにも似た集中が生み出す微妙な歪みさえも、表層の闇市場では、「完璧」という虚構の衣をまとわされ、消費され、そして粗末に捨てられていく。
窓の外、東京の光は相変わらず無機質に輝く。レプリカ時計とは何か? それは、本物という「神」への憧憬と畏怖、そしてそれを模倣し凌駕しようとする人間の傲慢と技術が生み出した、歪な「黙示録」の一節なのかもしれない。亡霊工房で創造される精巧な亡霊たちは、本物の影でありながら、同時に、本物という概念そのものを蝕む存在でもある。
僕は、机の上の神様の「作品」のケースバックを、指でそっと撫でた。冷たい金属の感触。その奥で、かすかに軋みながらも、必死に「時」を刻み続ける歯車の音が聞こえるような気がした。完璧な亡霊など存在しない。しかし、その不完全さこそが、闇に潜む人間の業(ごう)と、本物という絶対神への、歪んだ愛の形なのだろうか。明日も、亡霊工房では、新たな黙示録の一頁が刻まれ続ける。僕は、その音を聴き続ける者として。