中野ブロードウェイの喧騒は、いつもと同じだ。埃っぽい空気に、エアコンの冷気、そして無数の時計のチクタク音が混ざり合う。私は円・大古、この「レプリカ時計の迷宮」で十年以上も生きてきた男だ。「copys888」の店主であり、東京の「レプリカ時計」市場の、ある意味での生き字引だ。ガラスケースの中には、今日も完璧な輝きを放つ「スーパーレプリカ」たちが鎮座している。ロレックス・デイトナの「パンダダイヤル」、パテック・ノーチラスのブルー文字盤、オーデマ・ピゲ・ロイヤルオークの八角形ベゼル…。どれもが、正規品の半値以下で、正規品そっくりの外観と、スイスETAクローン機芯や精巧な国内製ムーブメントによる「それなりの」性能を提供する。それが、私の商売の根幹だ。
客層は多様だ。銀座のブティックの長い待ちリストに辟易したビジネスマン、SNSで見た憧れのモデルを、学生バイトの給料で手に入れたい若者、コレクションの「穴」を埋めるための「プレイスホルダー」を求めるマニア…。彼らが求めているのは、厳密な意味での「本物」ではない。あのブランドの象徴性、あのデザインのカッコ良さを、現実的なコストで「体験」することだ。私はそれを理解している。かつての私自身もそうだったから。毎日、冷たく完璧なレプリカを手に取り、その「本物らしさ」を説明し、丁寧に箱に詰める。それらは高度な技術と、ある種の「需要」が生み出した工業製品に過ぎない。
しかし、私の左手首には、常に異質な重みがある。1960年代のロレックス・オイスター・パーペチュアル。ケースには二つの深い傷痕──一つは運命的な事故の爪痕、もう一つは私自身の苛立ちが生んだ凹み──が刻まれている。これは、私が扱う「レプリカ」とは根源的に異なる。父・円・正男の魂が宿る、本物の「時」の塊だ。
今日の店は、妙な緊張感に包まれていた。新しく雇ったアルバイト、佐藤が、入念にケース内のデイトナのクロノグラフボタンをチェックしていた。彼は腕時計オタクの大学生で、知識は豊富だが、どこか純粋で、この業界の「グレーゾーン」な側面に、まだ完全には馴染めていないようだ。
「店長、これ…」佐藤が慎重に、一つのデイトナを取り出した。最新バッチの「アルティメット・クローン」だ。「ケースバックの刻印、前回のロットと比べて、フォントがほんの少し太い気がするんです。それと…」彼はルーペを当てた。「ここ、ロゴの王冠の先端の加工が、前より若干鈍っている…？」
彼の指摘は鋭かった。確かに、ほんのわずかだが、その違いはあった。工場からの連絡では、金型の微調整による「許容範囲内の差異」とのことだった。多くの客は気づかないレベルだ。しかし、佐藤のような目利き、あるいは真のマニアは見逃さないかもしれない。
「よく気づいたな。」私は認めた。「工場からの連絡では、許容範囲内の差異らしい。見た目の精度は、ロットによって微妙に揺らぐこともあるんだ。」
佐藤は複雑な表情を浮かべた。「…でも、店長。『スーパーレプリカ』って、そういう細部までこだわって『本物そっくり』を追求するものじゃないんですか？ それが売りなのに…」彼の目には、純粋な疑問と、少しの失望が混ざっていた。彼は「完璧な複製」という幻想を、まだ信じたかったのだろう。
その時、店のドアが勢いよく開いた。入ってきたのは、常連客の一人、山本だった。彼は「レプリカ時計」収集に熱心な、いわゆる「ガチ勢」だ。目はすぐに佐藤が手にしているデイトナに向いた。
「おっ、大古さん！ 噂の新型か！ さっそくチェックさせてくれ！」山本は佐藤からほぼ奪うように時計を受け取り、自身の高性能ルーペを取り出した。ケースを撫で、ベゼルを回し、竜頭を引き、そして…クロノグラフのスタートボタンを押した。
「…ん？」山本の眉がピクリと動いた。彼はもう一度、スタートボタンを押した。今度はストップ、リセットと順に操作する。店の雑音の中でも、かすかに聞こえたかもしれない、金属の微妙なこすれるような音。あるいは、ボタンを押した時の感触のわずかな「フワリ」とした感じ。
「大古さん。」山本の声が冷たくなった。「これは、前のロットとはちょっと違うな？ ボタンの感触と、作動音。内部のレバーか、ぜんまいの噛み合わせ、何かが『安っぽい』ぞ。まさか、工場がコスト削減で部品グレード落としたんじゃないだろうな？」彼の目は、疑いと、せっかくの期待が裏切られたような苛立ちを含んでいた。
佐藤が私を一瞥した。その視線には「ほらね」という言葉が込められていた。
「…山本さん、鋭いな。」私は重い口を開いた。「正直に言う。このロット、工場側の金型調整やら何やらで、外観にごくわずかな差異が出ているのは事実だ。内部の動作感についても、確かに前ロットとは…ニュアンスが異なるかもしれん。詳細は工場に確認中だが、『許容範囲内』というのが彼らの見解だ。」私は山本の目をしっかり見た。「『完璧な複製』は、時に幻想だ、山本さん。特に、激安で提供している以上、工場のコスト圧力は常にかかっている。外観の99%の一致と、それなりの動作精度、そしてこの価格帯。それが、現実的な『レプリカ時計』の姿だ。」
山本はしばらく黙って、手の中のデイトナを睨みつけていた。彼は明らかに不満だった。彼が求めるのは、「限りなく本物に近い」という、ギリギリのラインを攻める興奮だった。そのラインがほんの少しでも下がれば、商品価値は彼の中で大きく毀損する。
「…ふん。」山本はデイトナをケースに乱暴に戻した。「『それなりの動作精度』か。大古さん、お前の店は、昔はもっと『こだわり』があったはずだぞ。工場の言いなりになって、クオリティを落とすつもりか？」彼の言葉は棘を含んでいた。そして、私の左手首に視線を移した。「それとも、あの傷だらけの『本物』を大事にしすぎて、商売の方がおろそかになったのか？」
「山本さん！」佐藤が思わず声を上げた。
私は手を挙げて佐藤を制した。山本の言葉は、鋭く胸に刺さった。父のオイスターの傷痕が、突然熱く疼いた。私は左手首を上げ、店の明るい照明の下で、二つの深い傷痕を山本に見せた。
「この傷は、山本さん。一つは、父の形見であるこの時計を、事故で失いかけた時のもの。もう一つは…」私は拳を握りしめた。「…大口顧客への納品品に問題が見つかり、自分の不甲斐なさに腹を立てて壁を叩き、つけてしまった傷だ。」私はケースの中のデイトナを指さした。「私は、このレプリカを売ることで食っている。工場の都合も汲まねばならん。しかし、山本さんが言う『こだわり』を忘れたわけじゃない。ただ…」
私は父のオイスターを外し、山本の前に置いた。傷だらけのケース、古びた文字盤。
「…私が本当に『こだわり』、命を吹き込まれていると信じているのは、こっちだ。」私はオイスターの竜頭を引いて、数回巻き上げた。微かに「ザラッ」という手応えのある音。そして、すぐに始まる、力強く安定した「チク、タク、チク、タク」という鼓動。それは、ケースの中のレプリカたちの、どんなに精巧に作られたクローン機芯からも聞こえてこない、深みと確かさを持った音だ。
「この鼓動は、山本さん。50年以上前の、傷だらけの機械が刻む『本物の時間』だ。私は、この鼓動を、自分の商売の『基準』にしたい。」私は山本を真っ直ぐ見た。「レプリカは、あくまでレプリカだ。完璧を求めるのは、時に無理がある。しかし、『それなりの動作精度』という言い訳で、明らかな品質低下や、動作の不安定さを許容するつもりはない。工場には、このロットの問題点を徹底的に洗い出し、修正、または回収を要求する。次回以降のロットについては、外観の微細な差異はある程度受け入れるが、動作機構の信頼性、耐久性については、絶対的な基準を設ける。」
私は佐藤の方も向いた。「佐藤、お前の指摘は正しかった。これからは、外観チェックだけでなく、特にクロノ機能を持つモデルは、実際にボタンを操作し、動作感や異音がないか、入念にチェックする工程を追加しよう。ケースバックの刻印のフォント？ 気になるなら、気になる客のために、ロットごとの差異を記録した資料を作成してもいいかもしれん。」私は少しだけ笑った。「それこそが、我々の『こだわり』の新しい形だ。」
山本は、しばらく父のオイスターと、ケースの中のデイトナを交互に見比べていた。苛立ちの色は薄れ、代わりに、どこか考え込むような、複雑な表情を浮かべていた。
「…ふう。」山本は大きく息を吐いた。「…大古さん、その傷だらけのロレックス、なかなかイカしてるぜ。音も…確かに、一味違うな。」彼はケースの中のデイトナを指さした。「で、こいつは、どうすんだ？ 修正されるまで待つか？」
「工場からの回答次第だが、動作に明らかな問題があると判断したロットは、一旦販売停止にする可能性が高い。」私は言った。「納得のいくものだけを提供する。それが、私の『こだわり』だ。」
山本は少し間を置き、ニヤリと笑った。「…まあ、そう言われると、むしろ信頼できるってものだ。修正版が入ったら、真っ先に連絡くれよ。チェックしてやるぜ。」そう言い残すと、山本は店を出て行った。
佐藤はホッとしたように肩の力を抜き、私に言った。「店長…すみません。私、まだこの業界の現実がわかってなくて…」
「いや、お前の指摘がなかったら、問題を真正面から見据えられなかったかもしれん。ありがとう、佐藤。」私は父のオイスターを再び左手首にはめた。冷たい金属が肌に触れ、すぐに体温で温まる。その下で、Cal.1030は確かに、揺るぎなく鼓動を続けている。
私はサプライヤーのリーにメールを打った。件名は「【重要・至急対応】ロットNo. DTN-2405 品質問題に関する再調査と是正要求」。本文には、佐藤と山本が指摘した外観・動作の問題点を具体的に列挙し、詳細な調査報告と、修正案、または該当ロットの全数回収・交換の提案を要求した。最後に、太字でこう付け加えた。
我々のブランド価値は、単なる外見の模倣精度だけにあるのではありません。動作機構の信頼性と耐久性こそが、顧客の信頼を勝ち取る鍵です。当店は、『見せかけの完璧』ではなく、『確かな鼓動』を刻む製品のみを取り扱うことを再確認いたします。
メールを送信し、私は改めて店のガラスケースを見渡した。そこに並ぶ「スーパーレプリカ」たちは、今日も冷たく、そして完璧に輝いている。しかし、その輝きは所詮、借り物の光に過ぎない。真の輝き、真の価値は──私の左手首に刻まれた深い傷痕の下で、半世紀以上も休むことなく動き続け、確かな「時」を刻み続ける、あの古びた機械の中にある。この傷痕と、その鼓動こそが、東京のレプリカ時計市場という複雑な海原を、円・大古という船が決して迷わずに進むための、唯一無二の羅針盤なのだ。私は、その鼓動に耳を澄まし、舵を取り続ける。傷は勲章だ。鼓動は証明書だ。
