中野ブロードウェイ「copys888」のガラスケースには、「月面着陸」という人類史上に燦然と輝く偉業を背負った伝説の時計が鎮座していた。オメガ スピードマスター プロフェッショナルだ。黒い文字盤、タキメーター目盛り、3本のサブダイアル。その機能美と揺るぎない信頼性は、宇宙空間という極限環境で証明された。
「店長、スピーマスの新ロット入荷です!」アルバイトの佐藤の声に熱が込もる。彼が手にするのは、最新の「スーパーレプリカ」ムーンウォッチだ。「ベゼルの刻印が前回より深く鮮明! サブダイアルの太陽紋模様も再現度アップ! クローン1861機芯、クロノ機能も問題なしです!」
確かに、手に取るとその完成度は高い。文字盤の黒の深み、針のシャープさ、そしてヘスカライト風防の温もりある質感。かつてのレプリカにあった文字盤の色味の薄さや、クロノボタンのガタつきは改善されている。スピードマスターのレプリカは、そのシンプルなデザインと高い知名度ゆえに、常に「スーパーレプリカ」の定番であり続ける。しかし、「月に行った時計」という重い歴史を背負うが故に、その「再現」には常にプレッシャーが伴う。
「見た目の精度は確かに上がったな、佐藤。」私は認めつつ、クロノグラフのスタートボタンを押した。「カチッ」という軽い音がした。「ただ、本物のスピードマスターの神髄は、この外観の忠実さだけじゃない。NASAの苛酷なテストをくぐり抜けた『鉄壁の信頼性』と、文字通り命を預けた宇宙飛行士たちの『実績』が醸し出す、圧倒的な『ストーリー』だ。」私はケースバックを指さした。このレプリカは、見せかけの「ムーンワッチ」刻印が入ったクローズドバックだ。「本物は、その歴史を誇るように、頑丈なキャリバー1861や3861をオープンで見せてくれる。それは『中身』への揺るぎない自信の証だ。このレプリカには、その『本物の胆力(きも)』はない。形は借り物でも、魂は届いていない。」
その時、店にカメラを構えた若者、中村が入ってきた。彼は「宇宙オタク」を自称し、月面着陸関連のグッズ収集に情熱を燃やす。
「おお、大古さん! 新型スピーマスか!」中村は佐藤が持つレプリカを一目で見抜き、興奮して手に取った。「すげえ! このヘスカライトの質感、本物っぽい! 文字盤の『プロフェッショナル』の文字も完璧!」彼は熱心に写真を撮り始めた。「これで俺の月面着陸コレクションがまた一つ完成だ! SNSで自慢できるぜ! 値段は? 前回と同じくらいか?」
私が提示した価格に、彼は満足げにうなずき、即決で購入した。「月に行った時計を、この価格で手に入れられるなんて夢みたいだ! 実用性なんてどうでもいいさ。見て楽しめればそれで十分!」
中村が輝くレプリカのスピードマスターをSNSにアップする姿を想像しながら嬉しそうに店を出ていくのを見送り、佐藤が呟いた。
「…彼にとっては、『本物の歴史』より、『月に行った時計の形』を所有する満足感なんですね。」
「ああ。」私は頷いた。「レプリカのスピードマスターの価値は、多くの者にとって、『伝説のアイコンを手の届く形で所有し、その物語を“消費”できること』にある。『本物の過酷な試験』や『宇宙飛行士の信頼』は、彼らの関心の埒外なのだ。」
店が摘発され、レプリカの供給が滞り始めて数ヶ月後。ヴィンテージや中古正規品の割合が増え、ケースの一角に、一つの古びたオメガ スピードマスター プロフェッショナル 105.012が置かれていた。アポロ計画で実際に月面を歩いたモデルに近い、いわゆる「プリムーン」世代だ。ケースには深いヘアラインと微細な打痕、ヘスカライト風防には小傷が無数にあり、文字盤もわずかに変色していた。しかし、その全体からは、実際に長年使われてきた「道具」としての強烈な存在感と、歴史の重みが漂っていた。
ある晴れた午後、一人の年配の紳士がそのスピードマスターに目を奪われた。彼は無言で時計を取り出し、ルーペで細部を入念に観察した。特に、ケースバックに刻まれたシリアルナンバーと、わずかに残る「フロリダ」テストの刻印の跡に注目している。
「…これは…105.012か。」紳士が静かに呟いた。「…アポロ11号のバックアップクルーが装着したのと、ほぼ同じモデルだ。」彼は深い感慨を込めて時計を手に取り、念入りに腕に巻いた。「…この重み…この傷…まるで、あの偉大な時代の鼓動を直接感じるようだ。」彼はクロノグラフのプッシュボタンをそっと押した。「カチッ」という、深みのある確かな音が響く。
「…値段は?」
私は正直な(そして非常に高額な)価格を伝えた。紳士は一瞬、目を見開いたが、すぐに深く頷いた。
「…高い。しかし、これほどの歴史的価値と、この『本物の傷』が刻む物語を前にすれば、安いと言わざるを得ない。」彼は迷いなく購入を決めた。「これは、単なる『レプリカ時計』ではない。『人類が月に到達したという証』の一片だ。新しいレプリカには決して宿らない、『歴史そのもの』がここにある。」
紳士が去った後、佐藤が感嘆した。「…あの時計、新品のレプリカの何倍もしたのに…」
「ああ。」私は左手首の父のオイスターを見た。二つの深い傷痕が、店の灯りに浮かび上がっていた。「彼が買ったのは、『完璧な外見』でも『最新のクローン機芯』でもない。あの無数の傷と変色した文字盤に込められた、『本物の宇宙への挑戦』と、それを支えた『鉄壁の信頼性の記憶』だ。レプリカは、伝説の『形』を借りることはできても、その歴史が紡いだ『魂の重み』を複製することは永遠にできない。」この傷痕こそが、偽造を拒む、唯一無二の価値の刻印なのだ。私は、その傷に刻まれた壮大な「物語」と、その下で確かに鼓動し続ける「本物の時」を信じて、この場に立ち続ける。