新宿ゴールデン街、午前零時を回った頃。僕、円・大古は、醤油と焼き鳥の脂の匂いが澱(おり)のように漂う路地裏のバー「クロノス」の奥座敷にいた。隣の席で酔っぱらったサラリーマンが、ネクタイを緩めながら自慢げに左手首を掲げる。暗がりでも異様に燦然(さんぜん)と輝くロレックス・デイトナ、レインボーベゼルの「あの」限定モデルだ。光の加減で、ダイヤモンドの代わりに用いられたモアッサナイトの、少し硬すぎる乱反射が微かに滲む。「…寄生完了か」僕はグラスを傾け、ウイスキーの氷を噛んだ。完璧に見える鋼(はがね)の表皮の下で、精巧なコピーという「寄生獣」が宿主の虚栄心を静かに喰らい続けている。
その夜更け、僕は渋谷センター街の闇に紛れていた。巨大なビジョンが最新のサブマリーナーを誇示するその真下、若者がスマホの画面をちらつかせながら通行人にささやく。「ロレックス…本革ケース付き、特別価格ですよ?」 彼の開いたトランクの中には、オイスターパーペチュアル、ロレックス コピー、GMTマスターII…ロレックスの定番モデルがずらり。いわゆる「ストリートコピー」の即売場だ。通りかかった男がデイトジャストを手に取り、ルーペも使わず、重さだけを掌(てのひら)で確かめて頷く。外見の再現度は粗いが、手頃な価格と「そこそこの見た目」が、この層の需要を確実に満たす。鋼の寄生獣は、宿主の懐事情に応じて、様々な形態で寄生する。
「…こいつは、少し『出来』が良すぎるな」
翌日、僕は中野ブロードウェイの奥、ジロー親父の店の奥座敷にいた。彼の老練な指が、僕が昨夜密かに入手したストリートコピーのGMTマスターIIのベゼルを撫でる。特に、赤青の「ペプシ」ベゼルの色味と、24時間目盛りの刻印のシャープさが尋常ではなかった。
「表層だけ見りゃ、工場の上物(じょうもの)に引けを取らん。だがよ…」 彼は突然、ケースバックを開ける工具を手にした。
「待て、親父! バラしたら…」
「黙って見てろ、大古」 彼の口調は鋭い。ケースバックが外れ、中から現れたムーブメントは、ロレックス純正のカル.3186などではない。中国製コピームーブメントの典型、2824-2をベースに、GMT機能を無理やり載せた代物だった。複雑なパーツの積み上げが歪で、潤滑油も所々で滲んでいる。
「…見ろ、この無理矢理な造り。見かけは良くても、動き続ける保証はない。まるで…」 親父はムーブメントをルーペで凝視し、唾を吐くように言った。「…見せかけの血管に、ドロドロの偽物の血を流してる寄生獣だ」
その警告は、すぐに現実となった。数日後、新宿の質屋「時庵(じあん)」のカウンター。店主の老職人、カネコ爺さんが、客が持参した「ロレックス・コスモグラフデイトナ」のレプリカを、死んだ魚のような目で見つめていた。パンダダイアルは確かに精巧、クロノグラフのプッシャーも重厚だった。しかし、彼の指がリューズを引き出し、日付変更を試みた時──カチリという鈍い音と共に、日付盤が不自然に跳んだ。完全には切り替わらない。
「…中の『虫』が、もう限界だな」 カネコ爺さんが呟く。彼はケースを開けずとも、その歪な動作音で、内部で無理に組み上げられたパーツの悲鳴を聞き取った。見た目の完璧さに惑わされ、内部の危うさを見抜けない宿主たち。鋼の寄生獣は、時として宿主の手首で「死」を迎える。そして、その遺骸は質屋の引き出しの奥で、ひっそりと忘れ去られていく。
真の脅威は、より深い闇から来ていた。都内某所、表向きはITベンチャーを装うオフィス。ここが、最新鋭の「スーパーコピー」製造の指令塔の一つだった。開発リーダー、元・某高級時計メーカーの技術者だった男(彼らは彼を「ドクターK」と呼ぶ)は、分解された本物のロレックス・デイトナ最新ムーブメント、カル.4130の3Dスキャンデータを睨みつけていた。
「…問題は、この『クロノテージ』のテンプ受けだ」 彼がスクリーンを指さす。「純正の耐磁性と耐衝撃性を、このコストでどう再現する?」
部下が答える。「ドクター、素材は諦めて、見た目だけを…」
「バカモノが!」 Kの怒声が響く。「見た目だけなら、あの路地裏の雑魚(ざこ)で十分だ! 我々が目指すのは…」 彼の目が、異様な熱を帯びる。「…本物の『性能』に寄生し、それを凌駕(りょうが)する『新種』だ!」
彼の野望は、単なるコピーを超えていた。ロレックスという巨木に寄生し、その養分(技術)を吸い上げ、いずれは宿主を喰い尽くす、新たな怪物の創造へと向かっていた。その執念が生み出した試作品は、限界ギリギリの性能と、法の網をくぐるための巧妙な「違い」を併せ持つ、危険極まりない代物だった。
夜、自室。机の上には、ジロー親父が危険視した「出来すぎた」ストリートコピーのGMTと、カネコ爺さんの元で息絶えたデイトナのレプリカが並ぶ。どちらも、ロレックスという宿主に寄生した鋼の亡者だ。パソコン画面には、闇市場の深層サイトが映る。「遂に完成! ロレックス純正ムーブメント搭載スーパーコピー!」──ドクターKの配下が流したと思しき虚偽の情報が踊っている。その下には、釣られた者たちの哀れな書き込み。「届いたが動かない」「明らかに違う」「警察に…」。
僕は、息絶えたデイトナのレプリカを手に取った。冷たく、重い。その重さは、鋼の質量なのか、それとも詰め込まれた無理と虚構の重みなのか。窓の外、新宿のネオンは相変わらず鋼の叢林(そうりん)を照らす。ロレックスコピーとは何か? それは、ブランドという巨木に群がり、宿主の欲望と技術の養分を喰らい、時に宿主そのものを蝕む危険な「鋼の寄生獣」に他ならない。ジロー親父の言う見せかけの血管。カネコ爺さんが聞いた内部の悲鳴。そしてドクターKが目論む危険な進化…。
明日もまた、無数の寄生獣が、この街の表皮の下で蠢き、増殖し、宿主を求め続けるだろう。僕は、デイトナの冷たいケースを握りしめた。その奥で、歪に組み上げられた歯車が、もう二度と回らないことを知りながら。寄生獣の末路は、宿主との共倒れか、それとも…宿主そのものへの成り代わりか。答えは、鋼の闇の中にしかない。