中野ブロードウェイ「copys888」の店内、ロレックスやパテックの喧騒とは少し離れた一角に、控えめながらも深い輝きを放つ時計たちが並んでいた。グランドセイコーだ。日本の最高峰を謳うその時計は、西洋ブランドとは異なる、静謐で哲学的な美しさを湛えている。ザラツ研磨が生む「しずく」のような光の戯れ、完璧な針先、そして職人技が光る文字盤。その「和」の美意識と精度へのこだわりは、知る人ぞ知る名品だ。
「店長、グランドセイコーの新作クローン、『雪の花』が入りました!」アルバイトの佐藤が差し出したのは、人気のスノーフレークダイヤルモデルの精巧なレプリカだ。「文字盤の雪の結晶模様、かなり細かく再現されてます! 針先も鋭い! ムーブメントは国産クローン機芯、精度も良好です!」
確かに、手に取るとその再現度は驚くほど高い。独特のざらついた質感を持つスノーフレーク模様、深みのあるブルーの文字盤、そして研ぎ澄まされた針。かつてのレプリカにあった模様の粗さや、針先の丸みは改善されている。グランドセイコーのレプリカは、その高い技術力と比較的控えめな知名度ゆえに、一部のマニアの間で密かな人気を集める。しかし、その「再現」は、西洋ブランドとは異なる難しさを孕む。
「見た目の精度は確かに上がったな、佐藤。」私は認めつつ、時計を様々な角度から光にかざした。「ただ、本物のグランドセイコーの神髄は、この視覚的な美しさだけじゃない。『マイクロアーティストスタジオ』の匠たちが、完璧を求め、時に狂気的にすら映るほどの『こだわり』と『時間』をかけて生み出す、比類なき『仕上げ』の深みと、静謐な『気品』だ。」私はケースサイドのザラツ研磨を指でそっと撫でた。「このレプリカの研磨は、確かに本物を模倣している。しかし、本物が持つ、光の角度で無限に表情を変える『しずく』のような輝きと、触れた時の微細な『手触り』までは…再現できていない。それは、磨きの『深さ』と『執念』の差だ。」
その時、店にスーツ姿のビジネスマン、伊藤が入ってきた。彼は「高級時計愛好家」を自認し、本物のグランドセイコーも数点所有している。
「おお、大古さん。噂の『雪の花』クローンか!」伊藤は佐藤が持つレプリカを興味深そうに手に取り、ルーペを当てた。「ほう…確かに細かい。スノーフレークの再現もなかなか…」彼は様々な角度から光を当て、細かく観察する。「…ただ、本物のあの『深淵なブルー』と、光を吸い込むようなダイヤルの質感までは…やはり及ばないな。」彼は少し残念そうに笑った。「まあ、研究用サンプルとしては十分すぎる。本物はどうしても日常でガンガン傷つけられないからな。これなら気楽に分解して、その『再現技術』を研究できる。」彼は即決で購入した。「日本の技術力の高さは、模造品ですら侮れんということだな。」
伊藤がレプリカを「研究サンプル」として購入していくのを見送り、佐藤が首をかしげた。
「…本物を持っている方が、わざわざレプリカを買うんですね? しかも『研究』のためって…」
「ああ。」私は頷いた。「彼のような『玄人』にとってのグランドセイコーレプリカの価値は、『本物の代替品』ではなく、『日本の高い時計技術と美意識が、どこまで複製可能なのかを測る物差し』なんだろう。『本物の価値』を理解しているからこそ、その複製の限界にも興味を持つ。」
店が摘発され、レプリカ市場が縮小する中、ヴィンテージや中古正規品のコーナーは静かな人気を集めていた。その一角に、一つの古びた初代グランドセイコーが置かれていた。1960年代の貴重なモデルだ。ケースには細かいヘアラインが刻まれ、クリスタルには小さなキズがあった。しかし、そのシンプルな文字盤と、時代を経たザラツ研磨は、今なお深い輝きを放ち、本物の品格を感じさせた。
ある夕暮れ時、一人の年配の紳士がその初代グランドセイコーに足を止めた。彼は無言で時計を取り出し、ルーペでケースの研磨跡、針先、文字盤の細部を入念に観察した。そして、長い間、時計を手のひらに載せて、光にかざしては見つめていた。
「…初代の『グランドセイコー』か。」紳士が静かに呟いた。「…随分と、味わい深いものを見つけたな。」彼は深い感慨を込めて時計を手に取り、そっと腕に巻いた。「…このザラツの手触り…今のものとはまた違う、素朴でありながら深みのある輝きだ。まるで…」彼は遠い目をした。「…昔、諏訪の工場を訪れた時、ベテランの研磨師が手掛けた試作品の輝きを思い出す…。」
紳士は、かつて日本の精密機械産業に関わったエンジニアだと語った。彼はグランドセイコーの誕生と成長を間近で見てきた一人だった。
「…値段は?」
私は正直な(そして高額な)価格を伝えた。紳士は一瞬、息を呑んだが、すぐに深く深く頷いた。
「…高い。しかし。」彼はケースのヘアラインを撫でるように指でなぞった。「…この傷一つ一つが、日本の時計産業が歩んできた道程を物語っている。この輝きは、量産品でも、精巧な複製品でも決して出せない、『本物の職人の魂』が宿る証だ。」彼は迷いなく購入を決めた。「これは、単なる『時計』ではない。『日本のものづくりの誇りと苦闘』が凝縮された、生きた歴史そのものだ。」
紳士が去った後、佐藤が深い感銘を受けた様子で言った。
「…あの時計、新品のレプリカよりずっと高くて、しかも古いのに…」
「ああ。」私は左手首の父のオイスターを見た。二つの深い傷痕が、夕日に照らされ、オレンジ色に輝いていた。「彼が買ったのは、『最新の技術』でも『完璧な再現性』でもない。あの細かい傷と古びた輝きに込められた、『本物の職人魂』と、日本のレプリカ時計が歩んできた『確かな歴史』そのものだ。レプリカは、技術を『研究』する対象にはなりえても、あの『血と汗と執念で紡がれた物語』と、それに宿る静謐な『気品』を再現することは永遠にできない。」この傷痕こそが、偽造を許さない、至高の価値の証明なのだ。私は、その傷に刻まれた無数の「物語」と、その下で確かに鼓動し続ける「本物の時」を信じて、このカウンターに立ち続ける。